教える事

バイト始めて約二ヶ月。
「教える」ということの難しさと楽しさを感じつつある。

最近は同僚の先生から社会を教わっている。
(その時間は無給なので、茶店でコーヒー飲みながらやっているが)
社会とはどのような科目だろう。
少なくとも高校までの社会に限定すれば。
教科書に書かれた太字部分をどれだけ覚えているかがテストの点数に直結する。
そして、疑うべくもなく文系科目。
少なくとも俺はそういう認識だ、否、だった。

まず文理という概念が崩れた。
文系=暗記という図式が崩れた、この方が適当な表現か。
理は論理であり、ある公理・原理・定義から定理を導き、それを用いて論ずる。
すなわち問題を解く。
実は、これは社会にも通ずる部分があるということを知った。
ひょっとすると国語なんかもそうなのかも知れない。
それはまだわからない。

社会における理は、それこそ社会の理、つまりは常識である。
そう、すべてのことが「理にかなっている」
歴史にしても、地理にしても。
公民は…ちょっと違うか(笑)。

歴史はある事象の原因と結果の繰り返しだ。
ある結果が次の事象の原因となる。
西欧における教会権力の繁栄→宗教改革→絶対王政→市民革命→産業革命なんて、その典型だ。
(多分、酔っぱらったら絶対この話すると思う)
全ての事象が偶然に突発的に起きてるわけじゃない。
もちろん、偶然はある、だから歴史にはロマンチシズムが介入する余地がある。
だが、ほとんどは因果だ。
そこには力学が存在し、ふらつきながらもある方向へ収束するのだ。

地理にしてもそう、というか言葉の通り「地の理」だ。
社会生活を営む集団が定住している以上、農耕は必要不可欠なわけで。
ならばその土地の土壌や気候にあった農耕手段が生まれるのが必然。
畑作、稲作、牧畜…すべて理由が存在する。
(酔漢となった俺は焼畑農業について熱く語るだろう)

社会っておもしれぇ!
今の俺の正直なキモチ。
つーか教科書腐ってやがる、むしろ教師が――――(自主規制)
今の俺の過激なイケン。

なぜ勉強しなければならないか、という議論は置いといて。
まず教える側が最優先すべきことは何だろう。
理解させることか?
覚え込ませることか?
違うと思う。

知的好奇心を芽生えさせること、だと思う。
キッカケはなんでもいい。
ただ一番キッカケになりやすいモノは、彼らが毎日接している「五教科」だと思う。
雑学的な知識でも良い。
「なぜ関数の定積分が面積になるのだろう?」
「なぜ明治維新の主役である西郷隆盛が西南戦争を起こしたのだろう?」
「なぜ三人称単数現在の動詞にはsが付くのだろう」

一つの「なぜ」を与えると、視点が変わる。
「あれ、そう言われれば…なんで?」

一つの「答え」を与えると、驚きが生まれる。
「そっか、そうだったのか」

ただ与えられる物をそのまま受け取る、そんな受動的作業から。
与えられたものの中から「なぜ」を見つけ、それの「答え」を知りたくなる。
次の「なぜ」を見つけたいから、次に与えられる物を求める。
興味がわく、それは深い理解へと直結する。

現状は。
「なぜ?」と訊いてくる生徒はなかなか居ないし。
俺も即答できるほどの深い知識を持っているわけでもない。
それでも訊いて欲しい。
与えられる情報に対して何の疑問も持たない。
それが危険だということはわかるだろう?
(疑心暗鬼を徹底せよという意味ではない、念のため)

もっとも現行の教育課程では、そんな余裕が無いのは百も承知だ。
っていうか。
「ゆとりの教育」ってなんやねん。
学校に行く時間が少なくなって、塾へ通う時間を増やすのがそれか?
一体誰が「ゆとり」を実感してる?

俺のときは旧旧課程ぐらいだったか。
それでもフツーにやってた、それでいて部活だってみっちりやってた。
若い頃の脳はよくスポンジに例えられる、それはほとんどの人が知ってることだろ。
そんな時代に知的好奇心を植え付けないでどうする。
道具としての数学なんて、あとでいくらでも手に入れられるんだ。

なんで数学なんてものがあるんだ?
その問いに答えないでどうする!
古(いにしえ)の時代からこの世の森羅万象を目に見える形で表現しようと。
全てが不完全で、不確定で歪な世界を。
完全に確定された美しき数式(あるいは証明)へ投影することに全てを捧げた。
数学者、哲学者、ひいては科学者たちの血と汗と涙の結晶ぢゃないか。
漢のロマンがそこにあるぢゃないか!

まー、必須科目で嫌々勉強したモノも。
雑学として捉えると案外楽しめますよ、と。

なんか突発的に書きたくなった午前六時。
文章は千々に乱れ、起承転結の片鱗すら伺えないが…もう寝る。

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